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第689話

Author: 宮サトリ
しかし、弥生が思い出せたのは、ほんの一瞬の記憶だけだった。

それ以上を思い出そうとすると、頭がもやもやして、どうしても記憶の深部には届かなかった。

ベッドの端に腰掛け、彼女は長い時間ぼんやりとその映像について考え続けたが、何度考えても浮かんでくるのは、あの断片だけだった。

やがて窓の外が明るくなってきたのを見て、弥生はようやく立ち上がった。

部屋を出たところで、二人の小さな子供たちがすでに自分で服を着替えて出てきているところに出くわした。

良い習慣は幼い頃から身につけるべきだと弥生はそう信じていて、毎晩寝る前には「翌朝着る服を準備しておくこと」、そして「起きたらすぐに着替えること」を二人に教えていた。

最初はぎこちなかったものの、今ではすっかり慣れて、きちんとこなすようになっていた。

とはいえ、弥生はまだ少し心配だったため、二人の服装を確認しに近づいた。

気温はかなり低い。もしインナーが薄かったら、すぐに風邪を引いてしまう。

子供の免疫は大人よりも弱い。病気になったら看病も大変だ。

しっかりと着込んでいるのを確認し、弥生はようやく安心した。

「ママ」

ひなのがそっと弥生の指を引っ張りながら言った。

「ママ、今日の朝ごはん、揚げパン食べてもいい?」

その言葉に、弥生は一瞬手を止めた。そしてやさしく答えた。

「いいわよ。じゃあ、ママが作ってあげる」

「や、ママのじゃなくて......お店のやつがいいの」

弥生は少し困惑した表情になった。

「え?ママのが美味しくないの?」

ひなのは唇をすぼめ、まだ何も言っていないうちに、隣の陽平がすかさず口を挟んだ。

「ママ、ひなのはね、ジャンクフードが食べたいだけなんだよ。揚げパンの他に、豆乳とか、揚げ団子とか、ナナチキンも」

「お兄ちゃん!」

なるほどね。

揚げパンだけなら簡単だし、豆乳だって自家製でいける。揚げ団子やナナチキンも作れることは作れる。

ただ、今この時間からだと少し時間が足りないかも。

普段はあまり外食させない弥生だったが、ひなののまっすぐな眼差しに負けて、最後にはうなずいた。

「......行きましょうか」

身支度を整えた三人は家を出た。

エレベーターを降りたとき、弥生はふと、昨日病院で瑛介にはっきりと拒絶を示したことを思い出していた。

だから、彼は今日もう現れ
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